原作者のアーシュラ・K・ル・グウィン氏がHPで、ゲド戦記に批判的な感想

やはりキター。

宮崎吾朗氏や鈴木敏夫氏が、アーシュラ・K・ル・グウィン氏にも良いコメントをもらったと必死にアピールしていたが、それも裏目に。

asahi.com:映画「ゲド戦記」、原作者がHPに批判的「感想」

■丁寧に日本語訳をして、まとめてくれているサイト
ゲド戦記Wiki - ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント全文(仮)

■原作者アーシュラ・K・ル・グウィン氏のホームページ
Ursula K. Le Guin: Gedo Senki, a First Response

興行的にはなんとか成功の域に達してはいるんだろうけれども、このアーシュラ・K・ル・グウィン氏のコメントによって、ゲド戦記は完全な黒歴史になることが決定したか。宮崎駿氏にしても、これはかなり痛いよなあ。ますます引退するわけにはいかなそう。

とはいえ、現在の宮崎駿氏では、原作者を納得させるような映画に仕上げることができなかったような気もするし、そういう意味では、20年ほど前に宮崎駿氏がオファーをしたときに、アニメ映画化を断っていた時点で、映画化する機会は失っていたのかもしれない。

とりあえず、これによって、第二回宮崎吾朗監督作品はなくなったともいえる。これで次も制作するようならその精神を疑う。結局ジブリは、宮崎駿という屋台骨の元で成り立っていたわけで、次はもうないということも明らかだよなぁ。。

元々ハウルの動く城の監督をする予定だった細田守氏がジブリを去り、映画「時をかける少女」で好評価を得ているあたり皮肉だな。「耳をすませば」の近藤喜文氏も既にこの世を去っているし、ジブリもうだめぽ。

とりあえず、日本語訳を保守

はじめに
映画スタジオが自著をどのように扱うか、口出しのできる作家はほとんどいません。一般に、契約書に署名してしまえば、著者はもう存在しないも同然です。「監修者」などの肩書きに意味はありません。ですから脚本作家以外の作家に、映画の出来についての責任を問わないでください。著者に「どうしてあの映画は……」と質問してもむだです。著者も「どうして?」と思っているのですから。

経過の概略
20年かそこら以前、宮崎駿氏から手紙で、(当時はまだ3巻までしか出ていなかった)アースシーをベースにしたアニメ映画を作りたいという意向が伝えられました。わたしは氏の作品を知りませんでした。知っていたのはディズニー・アニメのようなものだけで、ああいうのは好きではなかったので、ノーとお返事しました。

6、7年前のこと、友人のヴォンダ・N・マッキンタイアから『となりのトトロ』の話を聞き、いっしょに鑑賞しました。わたしはその場で、永遠の宮崎ファンになりました。ミヤザキはクロサワやフェリーニと同じ、天才だと思っています。

その数年後、アースシー・シリーズの日本語訳者、清水真砂子氏が宮崎駿氏の知人だと聞き、もしまだアースシーに興味があるようなら、喜んで映画化の件を話し合いたいと伝えてくれるようお願いしました。

スタジオ・ジブリの鈴木敏夫氏から丁重なお手紙が届き、やりとりの中でわたしは、ストーリーやキャラクターを根本的に変更するのは望ましくない、なぜならこの作品は日本でも世界でも、多くの読者に親しまれているからだと強調しました。映画化するのに必要となる自由な想像力を働かせるために、宮崎氏は第1巻と第2巻のあいだの10年から15年の期間を利用してはどうかとも提案しました。そのあいだゲドが何をしていたのかはわたしも知らず、ただ大魔術師になったことがわかっているだけですから、宮崎氏はゲドに何でも好きなことをさせられるわけです(これがほかの監督だったら、こんな提案をしようとは思わないでしょう)。

2005年8月、スタジオ・ジブリの鈴木敏夫氏が宮崎駿氏とともに、わたしと息子(アースシーの著作権を保有する信託の管理をしています)と話をしにいらっしゃいました。わたしたちは自宅で楽しくお話ししました。

そのときの説明によると、駿氏は映画製作から引退するつもりで、宮崎家とスタジオでは、駿氏の息子の吾朗氏にこの作品を作らせたいとのことでした。吾朗氏はまだ1本の映画も製作したことがなく、わたしたちは大いに失望するとともに、不安を覚えました。ただしプロジェクトはつねに駿氏の承認を受けながら進められるという印象があり、また実際、先方もそのように保証していました。こうした理解のもと、契約は締結されました。

その時点ではすでに映画の製作は進行しており、子供と竜を描いたポスターが贈り物として届けられ、駿氏によるホート・タウンのスケッチと、スタジオ・アーティストたちによるその仕上画も同封されていました。

その後の映画製作は猛スピードで進行しました。間もなくわかったのは、駿氏が製作にまったくタッチしていないということでした。

駿氏からはとても心のこもった手紙が届き、さらに吾朗氏からも手紙が来ました。わたしもできる限りのお返事をしました。

この映画の製作に際して、太平洋の両岸で怒りと失望が生じたことは残念に思います。

後に聞いたところでは、駿氏は結局引退はせず、今は別の映画を撮っているとか。このこともわたしの失望を大きくしました。早く忘れてしまいたい出来事です。

映画
わたしも息子も東京でのプレミア試写会には行けませんでしたので、スタジオ・ジブリはたいへん親切にもフィルムをこちらに持ち込み、2006年8月6日の日曜日に、ダウンタウンの劇場でプライベートの試写をおこなってくれました。楽しい集まりでした。たくさんの友達が、子供たちを連れて来てくれたのです。子供たちの反応を見るのは楽しいものでした。小さな子供たちは怯えたりとまどったりしていましたが、年上の子供たちは冷静に観ていました。

試写のあと、みんなで息子の家で食事をしました。コーギー犬のエリナーはとてもお行儀がよく、鈴木敏夫氏は芝生の上で逆立ちをして見せました。

帰り際に宮崎吾朗氏がわたしに「映画は気に入っていただけましたか?」と尋ねました。状況を考えれば、これは簡単に答えられる質問ではありません。わたしは「ええ、あれはわたしの本ではなく、あなたの映画です。いい映画でした」と答えました。

そのときは吾朗氏本人と、まわりにいた数人以外の人たちに話しているつもりはありませんでした。私は個人的な質問に対する個人的な返答が、公になることを望んでいませんでしたから。ですからこのことにここで触れるのは、吾朗氏がご自身のブログにそのことを書いたからにほかなりません。

現代ではたった15分で何でも公になってしまうのが常であると心得て、あの映画について最初に持った感想を、ここに詳しく述べることにします。

全体としては、美しい映画です。しかし急いで作られたこの映画のアニメーションでは、多くの細部がカットされています。そこには『トトロ』の細密な正確さもなければ、『神隠し』の力強い、すばらしく豊かなディテールもありません。作画は効果的ですが、斬新さはありません。

全体としては、エキサイティングです。ただしその興奮は暴力に支えられており、原作の精神に大きく背くものだと感じざるをえません。

全体としては、思うに、一貫性に欠けています。これはたぶんわたしが、まったく違う物語の中で、自分の書いた物語を何とか見つけ、追っていこうとしていたせいでしょう。わたしの物語と同じ名前の人物が登場するのに、まるで違う気質と経歴と運命を負っているため、混乱してしまったのです。

もちろん映画は、小説を正確になぞろうとすべきではありません――両者は異なる芸術で、語りの形式がまったく違っているからです。大きな変更が必要になる場合もあるでしょう。そうは言っても、同じ題名を冠した、40年にわたって刊行の続いている本を原作にしたと称するからには、その登場人物や物語全体に対して、ある程度の忠実さを期待するのは当然ではないでしょうか。

アメリカと日本の映画製作者はどちらも、原作本から採ったのは固有名詞といくつかの概念だけ、それも文脈を無視して断片を切り取ったのみで、ストーリーはまったく別の統一性も一貫性もないプロットに置き換えました。本だけでなく、読者をも軽視するこのやり方は、疑問に思います。

映画の“メッセージ”も、やや強引に思えます。しばしば原作から引用してはいるものの、生と死、均衡などの言葉が、登場人物やその行動から導かれたものになっていないからです。意図はどれほどすばらしくても、物語や登場人物の内面を反映しておらず、“苦労して身につけた”ものではないため、説教くさいだけになってしまっています。アースシー・シリーズの最初の3巻にはたしかに金言めいた文章がありますが、本の中ではこのように浮いて悪目立ちしているとは思えません。

原作にある倫理観も、映画では混乱をきたしています。たとえばアレンの父親殺しは、映画では動機がわからず、恣意的なものに見えます。影/分身に命じられたという説明はあとで出てきますが、説得力がありません。なぜ少年は2つに分裂したのか? 手がかりは何もありません。これは『影との戦い』から採られたエピソードですが、原作ではゲドがいかにして影につきまとわれるようになったか、その理由も、最後には影の正体も明らかになります。わたしたちの心の闇は、魔法の剣の一振りで追い払えるようなものではないのです。

しかし映画では、邪悪さはわかりやすく悪党という形で外部化され、魔法使いクモが殺されて、すべての問題は解決してしまいます。

現代のファンタジー(文学でも政治でも)では、いわゆる善と悪との戦いにおいて、人を殺すというのが普通の解決法です。わたしの本はそうした戦いを描いてはいませんし、単純化された問いに対して、単純な答えを用意してもいません。

わたしのアースシーの竜はもっと美しいと思いますが、吾朗の竜が翼をたたむ動きの優雅さはよかったと思います。彼の想像する動物は、いずれも優しさが感じられます――ラマの表情豊かな耳の動きは気に入りました。畑を耕したり、水を汲んだり、家畜の世話をしたりといった場面はとてもよく描けていて、素朴で現実的な穏やかさを感じさせます――充満する対立やアクション・シーンとの間で見事な緩急を成していました。少なくともこの部分には、わたしのアースシーが感じられました。

肌の色の問題
アースシーの登場人物のほとんどを有色人種にし、白人を辺境に住むやや後進的な民族にしたのは、言うまでもなく欧米の読者に向けた道徳的な配慮です。ヨーロッパの伝統では、ファンタジーの主人公は当然のように白人――1968年当時はほぼ世界的にそうでした――で、肌の色が濃いのは邪悪さと結びつけられることが多かったのです。この思い込みをくつがえすだけで、作家は偏見に揺さぶりをかけることができます。

アメリカのテレビ版制作者は、自分たちは「色を気にしない/色盲だ」とほざいて、アースシーの有色人種人口を1人半に激減させました。わたしはアースシーを脱色したことで彼らを非難しました。許すつもりはありません。

日本では事情が異なります。日本での人種問題についてはほとんど知らないので、この件では何も言うことはできません。それでも和製アニメ映画が、このジャンルのほとんど不変の慣例にまさしく陥ってしまっていることはわかります。和製アニメの人物はその多くが――欧米人の目には――「白人」に見えるものですが、日本の観客の受け取り方は違うのだと聞いています。今回のゲドもわたしが見るよりも色黒に見られるという話でしたので、そう願いたいものだと思います。登場人物のほとんどがわたしには白人のように見えましたが、少なくとも褐色やベージュなど、好ましいバリエーションはありました。テナーが金髪で青い目なのは、あれで構いません。カルガド諸島出身の少数民族ですから。

アメリカではいつ『ゲド戦記』や Tales of Earthsea が観られるのですか?
テレビ局とのフィルムや権利に関する契約が切れたときです。2009年以降になります。やれやれ! 他人の楽しみの邪魔をしたがる人は、どこにでもいるんです。

注記:わたしたちが観たのは字幕版で、吹替版ではありません。スタジオ・ジブリの吹き替えは優秀ですが、このたび日本語の音声を聞けたのは嬉しいことでした。ゲドの温かく暗い声は、とくにすばらしいものです。テルーの歌う愛らしい歌は、吹き替えでもそのまま使ってもらいたいと思うほどでした。

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